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ピンクリボンに願いを込めて

ピンクリボンと私

島田 菜穂子(認定NPO法人乳房健康研究会 副理事長)

手探りでの船出
最進鋭の機器を駆使して、診断や治療を他の診療科の先生にスマートに伝える・・・そんな颯爽とした放射線科診断医の姿を、学生実習のときに目の当たりにし、憧れ夢見て、おなじ道をと進んだのが、私が放射線科という診療科を選んだ理由でした。

医師として第一歩を踏みだしてみると、現実は夢に程遠く、人のためになるとか、治療に役立つ情報を画像から読み取って他の先生方に提供できるようになるまでには山のような勉強と経験が必要なことを思い知らされました。前に進むために山盛りのフィルムと医学書に埋もれながらカンファランスに画像診断にと追い立てられるように、毎日を過ごしていたころは、乳腺診療にこれほど心を注ぐようになるとは夢にも思いませんでした。

転機となる出会い
きっかけは突然訪れました。大学病院で医師としてまだひよこ歩きをしていた頃、ある日の薄暗い超音波検査室の中でした。数日後の手術を控えた乳がん患者の彼女は、主治医の先生には遠慮してそして怖くて、なかなか相談できなかったいろいろな心配事を、頼り無かったであろう私にぽつりぽつり話し始めてくれたのです。 持てる知識を振り絞って、真剣に彼女に向き合ってお話が終わったあと、彼女は私に宝物のような言葉をプレゼントしてくれました。 “先生に逢えて本当に良かった。さっきまで乳がんになったことを恨んでいたけど、なんだかうまく乗り越えられそうな気がするから。ありがとうございます”こんな素敵な言葉に支えられて、私の情熱は大きく膨らみました。

その後大学病院での研修を終え、1992年、東京逓信病院で私が乳腺外来を開設した当時は、乳腺外来も、さらにはそれを放射線科医が行うことも国内ではあまり例が無く、すべてが手探りのスタート。 幸い診療科を超えて、同僚・上司の理解と協力に恵まれ、又受診者にもお互いに参加しあう診療というスタンスを理解していただき、年を経るごとに、本業の画像診断業務よりかなりのエネルギーを乳腺診療へ注ぐようになりました。

乳がん先進国米国での研修留学
そんなとき、かねてからの夢であった乳がん先進国米国での研修留学のチャンスをつかみました。ピンクリボン活動をはじめとする、乳がん啓発活動に対して私が強い思いを持つようになったのはこの米国留学がきっかけになったのです。 乳がん先進国での診療を経験したい、新しい画像診断の何かをつかみたい一心で胸を膨らませて渡米。渡米後、ブレストセンターで1ヶ月も過ごすと、私は予想外の事態に気がつきました。日米の大きな違いに愕然。この違いは医療レベルでもなく、画像診断の新しさでもなく、他でもない一般女性たちの乳がんに対する関心と知識の高さでした。

しかし、米国女性が日本人女性に比べ、教育レベルが高いわけでもなく、勤勉なわけでもありません。私が拠点を置いたセントルイスはアメリカ中西部ののんびりした街で、いまだにお尻の大きさが日本人女性の2-3倍はあるような体型の女性が多い、どちらかというとヘルシー志向が薄い古典的なアメリカの街。なのにブレストセンターに来る女性は、乳がんがどれだけ自分たちに身近な病気であり、でもその珍しくない厄介な病気は、早く発見さえすれば命も乳房もとられること無く治すことができること、早く発見するにはマンモグラフィという検査を毎年受けることが非常に大事だということを皆知っていたのです。

決意の時
今でも忘れもしない、あれは、東京でいかにも知的で上質な暮らしをされているであろうと見える素敵なご婦人が、私に外来に見えたときでした。 慎み深く着衣をはずすと、目に飛び込んできたのは青黒く腫れ上がり、今にもはちきれそうな乳房のできもの。幾度と無くこんな思いをしたことか。世界の経済をも動かそうという大都市東京のど真ん中の病院で、です。検診を毎年丁寧に受けていて発見された極小の乳がんに出会えることは、東京の病院では決して頻繁ではありませんでした。しかし、アメリカの田舎町では違っていたのです。マンモグラフィでしか発見できないような早期がんで治療を受けに来る女性がたくさん居たのです。日本人女性は決して怠け者でも無知でもありません。なのに、このアンフェアは一体何なんだと叫びたい気持ちでした。 米国の病院内をくまなく探しても何の答えも見つかりません。

そのヒントは病院の外にあったのです。町中の建物や看板、ジュースのパックにも、シャンプーのボトルにもピンクリボン。テレビやラジオではメッセージが流れていました。“Mammogram saves your life.”誰もが知らず知らず、いつでもどこでも乳がんに関する情報を得られる工夫がされていたのです。私が病院の中でいくらがんばって、目の前にいる患者様と真剣に向き合っても、それだけでは日本は変わりません。 日本人の女性に、そして男性にも知ってもらいたいことが山ほどある、病院に来てくれる人をただ待っているだけでは、大切な情報は伝わらない、こんな溢れる思いを胸に秘めて、ピンクリボン活動のための団体を結成しようと奔走を始めたのは日本に帰国した直後でした。

そして帰国翌年、ちょうど2000年日本のマンモグラフィ元年、同志が集まり乳房健康研究会を発足、ピンクリボン活動を始動しました。 ピンクリボンって何?というお話から始めなければいけなかった当時は、何もかもが容易ではありませんでしたが、あのときの小さな一歩一歩が今や少しづつ全国に広がり、多くの皆様の願いと思いで、素晴らしい活動に育ち花が開きつつあります。乳がんで亡くなる人がゼロになるその日まで、花は何度も種をつけて、新しい芽を出して、また花が咲き続けるように。その願いの花は、私たち一人ひとりでもあります。 私のできることは小さなことですが、真心をこめて続けてゆきます。 診療や活動を通じて、乳がんによる悲しみのない世界を目指して。 女性がより健やかに、美しく輝けますように。 ピンクリボンに願いをこめて

(2015年03月)